三菱重工サッカー部の
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VOL.1 | 2017.08.05

三菱重工サッカー部とは

今年から浦和レッズの経営に関わることになった、チームの前身でもある三菱重工業。
その系譜をたどる連載、第1回は三菱重工サッカー部の歴史を振り返る。

記事提供=URAWA MAGAZINE
文=大住良之(text by Yoshiyuki OSUMI)

三菱重工サッカー部とは
1964年
三菱重工サッカー部創設
実業団チームとして、翌年に発足する新リーグに向けてスタートを切る。
重要な意味を持っていたサラリーマンサッカー時代

「サラリーマンサッカーの時代は終わった」

 1986年秋、日本サッカーリーグ(以下JSL)の新シーズン開幕を前に、こんな衝撃的なコピーを付したポスターが話題になった。
 画面いっぱいに一人の選手の顔。9年間にわたるドイツ、ブンデスリーガでの活躍からJSLの古河電工に復帰した奥寺康彦だった。この年、日本サッカー協会はプロ選手の登録を認めた。奥寺は間違いなくそのシンボルだった。

 この年を含めJSLはあと5シーズン続き、92年に「完全プロ化」のJリーグ時代を迎える。Jリーグの誕生こそ、2021年に協会設立百周年を迎える日本のサッカー史の最大の事件だった。Jリーグ誕生を契機にサッカーは日本人の生活の中でポピュラーな存在となり、日本代表もワールドカップ出場への道を切り開いていく。

 

 だがそれは、それまでの時代が間違っていたということを意味するわけではない。JSLのポスターがいみじくも言い切った「サラリーマンサッカー」の時代は、江戸時代が日本の文化を醸成したように、日本サッカーの発展史で重要な意味を持っていた。

 日本サッカーは明治時代に東京高等師範学校(現在の筑波大学)で盛んになり、そこで学んだ学生たちが日本各地に教育者として散っていったところから広まった。そのレベルは、36年にはベルリン五輪で優勝候補の一角であるスウェーデンを下したように、決して低いものではなかった。

 しかしサッカーというよりも日本のスポーツ自体が、第二次世界大戦後のある時期まで大学生が頂点という構図だった。当時の最高の大会だった天皇杯の優勝チームリストを見れば、59年までは大学あるいはOBも含めた大学のクラブチームの名だけが並んでいる。戦後復興の中、企業にはまだ余力はなく、社会人になるとサッカーは二の次にならざるを得なかったのだ。選手としての完成には人間としての「成熟」を必要とするサッカーにとって、それは大きな損失だった。

 そうした時代に一石を投じたのが古河電工だった。長沼健を中心に大学卒の名選手を集め、企業チームとして60年の天皇杯で初優勝。新時代を開いた。64年の東京五輪を経て翌65年にスタートした日本サッカーリーグには8つの企業チームが参加。練習環境が整い始めると、大学チームは瞬く間に対抗できなくなる。東京五輪以後の20年間は、日本経済が急成長する中、まさに企業が日本のスポーツを支えた時代だったのだ。

優秀な選手が続々と集まり、人気、実力を備えたチームに

 三菱重工サッカー部は、そうした時代に日本のサッカーの中心的役割を担った存在だった。

 

 50年に神戸の「中日本重工(52年から新三菱重工)」サッカー部として誕生、関西学院大のOBを中心に社会人の強豪となり、58年に本社の東京移転とともに東京のチームとなる。そして64年、社名が変更され「三菱重工サッカー部」となった。

 すでにMF継谷昌三とDF片山洋の2人が東京五輪の日本代表に選ばれるなど社会人の強豪の一つに数えられており、65年のJSL設立にも貢献して当然のようにそのオリジナルメンバーとなった。

 

 当時、三菱重工は学生の間で就職したい会社ナンバーワンという人気企業だった。JSL初年度は8チーム中5位だったが、その後、数年のうちに優秀な選手が続々と集まった。66年にはFW杉山隆一、GK横山謙三という五輪代表選手が入社し、「次期スター候補」と言われた落合(旧姓山田)弘が東芝から移ってきた。さらに翌年には、五輪代表MF森孝慈も入って戦力を充実させた。監督には二宮寛が就任し、JSL初年度から連覇を続ける東洋工業へのチャレンジを開始する。

 ただ、丸の内のオフィスに勤める「サラリーマンチーム」には大きな悩みがあった。ウイークデーに練習ができないことだ。広島の東洋工業は本社工場の敷地内にグラウンドがあり、終業後、毎日練習していた。このハンディは大きかった。

 コーチの森健兒は二宮監督をサポートするためには練習環境の整備が必要と考えた。まず社内に後援会を作って選手の交通費を補助し、川崎の平間にあった健保の運動場を練習場として確保し、夜間練習のために照明設備もつけてもらった。そして、社内各方面を説いて回り、選手たちは仕事を午後3時で切り上げて毎日練習ができるようにしたのだ。

 二宮は単身欧州の視察に出掛け、ボルシアMGでブンデスリーガに旋風を起こしていたヘネス バイスバイラーと出会う。そして三菱重工にも新時代のスピードサッカーを導入する。こうして69年、三菱重工は東洋工業の連覇に終止符を打ち、無敗でJSL初優勝を成し遂げる。

 杉山、横山、落合、森といったスター選手の存在もあり、三菱は実力と人気を兼ね備えたチームとなる。メキシコ五輪の得点王、釜本邦茂を擁するヤンマーディーゼル(大阪)との対決は大きな話題となり、68年11月には国立競技場に4万人の大観衆を集めた。この記録は「プロリーグ」の足音が迫る89年まで破られることはなかった。

三菱重工サッカー部とは
1971年
天皇杯初優勝
決勝戦では3対1で勝利を納め、悲願の初優勝を果たす。
プロ化の波にのまれたが、JSLの象徴的存在だった

 だが、80年代に入ると、読売クラブ、日産自動車など「プロ指向」のチームが台頭し、「社員選手」だけの企業チームは苦戦を余儀なくされる。86年にプロ選手の登録が解禁されるとその傾向はさらに強まり、時代は完全プロ化へと一挙に流れていく。

 90年、プロリーグ参入を決めた三菱重工サッカー部は、より一般消費者に近い存在の会社がチームを持つべきという理由で三菱自動車にチームを移管、40年間の歴史に終止符を打った。

 JSL優勝は69年を皮切りに73年、78年、82年の計4回。天皇杯でも4回の優勝を飾った。88-89シーズンには最下位となって2部降格の苦汁を飲んだが、JSLの全27シーズン中26シーズンを1部で過ごし、その通算成績は460戦211勝117分け132敗、総得点682、総失点507。JSL1部を経験した全22チーム中最高の数字だった。

 三菱重工サッカー部は、まさにJSL時代の寵児だった。常に世界の最先端のサッカーを導入し続けて時代を先導したこのチームがあったからこそ、Jリーグがあり、浦和レッズがあることを、私たちは忘れてはならない。

三菱重工サッカー部とは
1978年
史上初の3冠達成
日本サッカーリーグ、JSLカップ、天皇杯で優勝。
圧倒的な戦績を残す。

大住良之 Yoshiyuki OSUMI

神奈川県横須賀市生まれ。
大学卒業後にベースボール・マガジン社に入社し、後に『サッカーマガジン』編集長に就任。88年からフリーとして活動。著書に『浦和レッズの幸福』(アスペクト)など。

URAWA MAGAZINE ISSUE122より転載

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