三菱重工サッカー部の
系譜SPECIAL CONTENTS

VOL.2 | 2017.09.22

二宮 寛Hiroshi NINOMIYA 日本サッカーの革命児

浦和レッズの前身でもある三菱重工業、その系譜をたどる連載。
第2回は、監督として三菱重工を一躍強豪に引き上げた二宮寛氏の元を訪ねた。

記事提供=URAWA MAGAZINE
インタビュー・文=大住良之
(Interview and text by Yoshiyuki OSUMI)

写真=兼子愼一郎
(Photo by Shin-ichiro KANEKO)

二宮 寛  日本サッカーの革命児
三菱重工サッカー部を時代のリーダーに引き上げた男

 日本サッカーリーグ(JSL)は、東京オリンピック直後のデットマール・クラマー(日本代表特別コーチ)の提言によりその翌年の1965年にスタートし、92年まで27シーズン開催された。

 日本の社会では、東京五輪までサッカーという競技の認知度は非常に低く、「球けり」程度の認識しかなかった。当然、競技人口も少なかったのだが、わずか半世紀後にはプロリーグをスタートできるほどに普及が進み、レベルも上がっていたことになる。日本代表チームの成績だけを見れば東京大会の次のメキシコ五輪(68年)で銅メダルの快挙に輝いたものの、その後は五輪にもワールドカップにも出場できない「暗黒の時代」が続く。しかしJSL時代そのものは、アメリカと共に「サッカー不毛の地」とまで言われた日本にサッカーファンを広げ、競技人口を増やし、選手層を厚くしてきた「成長の時代」でもあった。

 そうした時代に三菱重工サッカー部は、そのJSLのサッカーを発展させ、飛躍させるリーダーの役割を果たした。優勝4回、460戦211勝117分け132敗。文句なくナンバーワンの成績は、他のチームが目標とするに十分だった。そして三菱重工に革命的なサッカーを植え付け、JSLの中で特別な存在に引き上げたのが、68年から75年まで監督を務めた二宮寛だった。

 
飛躍のヒントを求め単身渡独。名将バイスバイラーとの出会い

 二宮が監督に就任したのはJSL3シーズン目の68年。31歳のときだった。「選手兼監督」という立場だったが、前期7試合は2勝2分け3敗。「これではダメだ」と監督に専念し、夏季に猛練習を実施、後期は5勝2分けの好成績を残した。そして「勝負」と考えた翌69年2月、二宮は単身西ドイツを訪れる。サッカー先進国の中では最も日本にメンタリティーが似ていると思われるドイツから飛躍のヒントを得たかったのだ。

 あいにく「日本サッカーの父」クラマーはFIFAの仕事で不在。他にはあてはなかった。三菱重工のデュッセルドルフ支店を訪れて相談すると、ドイツ人スタッフが口をそろえて「ボルシア・メンヒェングラートバッハ(以下ボルシアMG)」の名を挙げた。

 その冬は「過去半世紀で最も寒い冬」と言われていた。気温は連日マイナス10度。ボルシアMGのトレーニングには5000~6000人ものファンが来るのが普通だったが、さすがにこの時期には一人もいなかった。だが二宮は近くにホテルをとり、毎日午前午後の二部練習に通った。それも選手より先にグラウンドに行き、小さな観客席の一隅に座って食い入るようにひたすら練習を見ていた。

 

10日ほど経たころだっただろうか。午前練習が終わった後、監督のヘネス バイスバイラーが二宮のところに歩み寄ってきた。
「昼飯を一緒に食おう」

それが始まりだった。当時の二宮はブロークンな英語しかできなかった。バイスバイラーはドイツ語しか解さなかった。しかし温かな食事を取りながら、二宮は懸命に語った。バイスバイラーもドイツ語で話した。話をするまで、バイスバイラーは二宮が彼の友人であるクラマーに指導を受けた選手であることも、日本人であることさえ知らなかった。不思議なことだが、それでも理解し合えた。
「今夜からうちに泊まれ」

 最後にバイスバイラーはそう言った。二宮は遠慮したが、バイスバイラーは「指導はグラウンドだけで行うのではない。日常生活を通じてありのままの私を見なさい。私もありのままの君を見たい」と話した。結局、その日から二宮は40日間をバイスバイラーの自宅で過ごし、トレーニングと試合に帯同した。

二宮 寛  日本サッカーの革命児
ドイツサッカーを吸収し、革命的なチームづくりを敢行

 当時のボルシアMGはスタートして6シーズン目のブンデスリーガでセンセーションを巻き起こしていた。MFネッツァーを中心とした全員攻撃・全員守備の攻撃的でスピード感あふれるサッカーはドイツ中を魅了していた。

 ケルンスポーツ大学でサッカー指導者育成の専任講師も兼務していたバイスバイラーは、若手の指導でも際立っていた。個々の選手の個性を何よりも尊重し、その個性を徹底的に伸ばすことでプロとして自立させた。瞬時に攻守が入れ替わるサッカー、予想のつかない激しい攻防こそファンをスタジアムに呼ぶ原動力であり、それには選手の強烈な個性が必要であるというのが、彼の信念だった。

 「監督2年目」の二宮の下には、DF片山洋、GK横山謙三、FW杉山隆一、MF森孝慈という4人の日本代表選手がいた。彼らは海外経験も豊富で、間違いなく三菱重工の柱だった。だが若手には海外経験もほとんどなく、4人との格差は大きかった。その差を縮めることが、当時の二宮の大きな課題だった。

 この「格差」は、三菱だけでなく、当時の日本サッカーが抱える重大な問題でもあった。64年の東京五輪のために20人ほどの選手を集中強化し、その20人をさらに4年間強化して獲得したのが68年のメキシコ五輪の銅メダルだったからだ。海外遠征の数、経験という面で、このひと握りの日本代表選手と他の選手の格差は、現在では想像もつかないほど大きかった。

 バイスバイラーは「個性を徹底的に伸ばす」というヒントを与えただけではなかった。40日間が過ぎ、二宮が帰国するときに大きな土産をくれた。年に2、3回、三菱の選手を連れてこいという、願ってもない誘いだった。

 さっそくその夏、二宮はMF落合弘、DF大西忠生、FW大久保賢司、DF菊川凱夫の4人を連れてボルシアMGの合宿に参加した。バイスバイラーは日本の若手4人を他の選手と分け隔てすることなく完全にチームの一員として扱い、練習試合にも参加させた。その年、三菱重工は14戦して10勝4分け。無敗でJSL初優勝を飾った。

 「1対1の挑戦」「個性の適切な配置」「球際の攻防」「攻守の切り替えの早さ」「全員攻撃全員守備」「ゴールに直結する波状攻撃」「前線の守備で奪ってゴールに直結させる」「リスタートを生かす」「フィジカル強化」など、当時二宮が掲げた革命的なチームづくりの柱は、そのまま今日のサッカーに通じるものだった。
 こうしたものを可能にしたのが、数年間のうちに急速に実施された練習環境の整備だった。

 66年に杉山と落合、67年には森などの有望選手が加わったが、三菱重工は基本的に東京・丸の内の「サラリーマンチーム」だった。ウイークデーのチーム練習など不可能な状況だったのだが、67年には川崎工場のグラウンドに夜間練習のための照明設備をつけ、週に4回の練習が可能になった。だが夜7時からの練習を終えて帰宅すると深夜になる。その疲労がたまったままの試合となった。

 二宮は会社と交渉して午後3時で仕事を切り上げて練習に行けるようにしてもらい、さらに仕事は午前中という形に変えてもらった。名古屋や大阪への遠征後は夜行列車で帰って会社に直行という形だったのを、新幹線で当日帰れるようにしてもらった。

 二宮自身は、大変な生活をしてきた。慶応大学2年のときに日本代表となり、59年に三菱重工入りした。チームはその年に全日本実業団選手権で準優勝を飾り、社内で少しは評価されるようになったが、高度成長期の中で配属された原動機事業本部は多忙を極め、練習どころではなかった。

 そこで二宮は毎日6時に家を出て7時に出社し、皇居を2週走ってから始業という生活を4年間続けた。たまには理解ある上司のおかげで夕刻に東大の御殿下グラウンドに行き、1時間ほど一人でボールを蹴ることもできたが、それから会社に戻って夜12時まで仕事という毎日だった。そんな思いを、自分と一緒に日本一を目指している選手たちに味わわせたくないというのが、二宮の真意だった。

二宮 寛  日本サッカーの革命児
神奈川県の葉山にて二宮自身が店主を務めるコーヒー店『パッパニーニョ』。
店内には、店の名付け親であるフランツベッケンバウアー氏のサイン入り色紙をはじめ、ファン垂涎のサッカーグッズがそこかしこに飾られている
共に時代を盛り上げた“本物のライバル”ヤンマー

 69年のJSL初優勝を皮切りに三菱重工は71年には天皇杯初制覇、73年にはJSLと天皇杯の2冠を成し遂げる。

 こうした時期に近代的なスピードサッカーの三菱重工に対抗したのが、鬼武健二が監督を務め、釜本邦茂の得点力とネルソン吉村らのテクニックをつなぎ合わせたヤンマーディーゼルだった。「欧州スタイル」の三菱重工と「南米スタイル」のヤンマーの顔合わせは、1965年のJSL誕生に始まる日本のリーグサッカー半世紀の歴史でも特筆すべきライバル関係だった。普段は3000人程度だったJSLの試合に常に1万を超す観客を集め、時には2万にも3万にもなった。

 「レベルを上げるためには、本物のライバルが必要だと思います。釜本を止めるために落合がどう努力したか。釜本は本当に素晴らしいストライカーでした。当時の世界で言えば、ゲルト ミュラー(西ドイツ)やヨハン クライフ(オランダ)に匹敵する実力を持っていました。そして大事なのは、私たちもヤンマーも、互いに相手にリスペクトの気持ちを持っていたということです。現在のJリーグにも、そうした本物のライバル関係があるといいですね」(二宮)

二宮 寛  日本サッカーの革命児
いい選手だけを集めても、いいチームができるわけではない

 二宮は76年から78年まで日本代表の監督を務め、退任するとサッカーから身を引いて、できたばかりの「欧州三菱自動車工業」の責任者となって欧州に赴任した。三菱重工監督時代に選手の環境改善の働き掛けをして「仕事は午前中」という当時の常識を破る形にしてもらう中で、「ただし選手生活は30歳まで」という約束もしていた。「監督」という仕事柄40歳を超えてしまっていたが、サッカーでの仕事にひと区切りをつけた以上、以後は会社のために働かなければならないと考えたためだった。

 そして2000年、63歳になると、会社の仕事からも退き、神奈川県の葉山で小さなコーヒー店を開き、そこの「おやじ」に収まった。『パッパニーニョ』という店名は、バイスバイラーを通じて親交を結んだフランツ ベッケンバウアーがつけてくれたものだった。

 いまでも毎日、二宮は自ら選んだ豆を挽き、ゆっくりとコーヒーをいれる。そして こんな話をする。
「いい豆だけを使っても、おいしいコーヒーになるわけでもない。ブレンドの中心をどこに置くか、脇役をどうするか。サッカーチームも同じですね。いい選手だけを集めてもいいチームができるわけではない。バイスバイラーも毎朝コーヒーをいれてくれましたが、そんなところにも、彼のサッカー哲学を学ぶ機会があったのですね」

二宮 寛  日本サッカーの革命児

大住良之 Yoshiyuki OSUMI

神奈川県横須賀市生まれ。
大学卒業後にベースボール・マガジン社に入社し、後に『サッカーマガジン』編集長に就任。88年からフリーとして活動。著書に『浦和レッズの幸福』(アスペクト)など。

URAWA MAGAZINE ISSUE123より転載

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