三菱重工サッカー部の
系譜SPECIAL CONTENTS

VOL.3 | 2017.10.06

横山 謙三Kenzo YOKOYAMA “赤”の源流

浦和レッズの前身でもある三菱重工業、その系譜をたどる連載。
第3回は、選手・監督として三菱重工を支え、後にレッズの監督も務めた、埼玉県サッカー協会会長横山謙三氏の元を訪ねた。

記事提供=URAWA MAGAZINE
インタビュー・文=大住良之
(Interview and text by Yoshiyuki OSUMI)

写真=兼子愼一郎
(Photo by Shin-ichiro KANEKO)

横山 謙三 “赤”の源流
三菱重工に入社した待望の日本代表GK

 「毎年数人の若手をドイツのボルシア・メンヒェングラートバッハに行かせる『短期留学』の成功には、当時の三菱重工の中心選手であり日本代表選手でもあった4人、片山(洋)、杉山(隆一)、横山(謙三)、森(孝慈)の理解と心根というようなものがとても重要な役割を果たしました。自分たちも行きたいと思って当然なのですが、彼らと若手との差を縮めることが目的であることを理解し、若手が帰ってくると、行ったことではなく、それをきちんと消化して身に付けることが大事であることを、彼らが帰ってきてからの練習でしっかりと示してくれました」

 そう語るのは、1960年代の終わりから連年若手選手をドイツに送り込んで、時代をリードするチームをつくり上げた監督・二宮寛である。今回はその4人の中心選手の一人、GKとして東京、メキシコの両オリンピックで活躍した横山に話を聞いた。浦和レッズの監督として2シーズンにわたってチームを率いた人でもあるが、「レッズ」の「生みの親」であることを知る人は少ない。

 東京五輪代表でGKとして全4試合にフル出場した横山が三菱重工サッカー部の一員となったのは、日本サッカーリーグ(JSL)がスタートして2年目の66年のことだった。東京五輪の攻撃のスターであり、当時「20万ドルの足」と言われた明治大学出身のFW杉山隆一も同じ年に三菱重工入りしたため、メディアの注目は杉山に集中したが、横山の加入は三菱重工にとって非常に大きいものだった。

 三菱重工(64年以前は新三菱重工)には関西学院大学出身の生駒友彦という名GKがいた。50年代後半に日本代表として活躍した選手だったが、JSLが始まった65年には33歳を迎え、毎日練習できるわけではないアマチュアGKとしては、選手登録はしていたものの、試合に出場できるコンディションではなかった。「代表クラスのGK」が待望される中、横山の加入は強化面で重要な要素だったのだ。

 だが当の本人は至ってのんきなものだった。65年の夏に日本代表の活動があったとき、たまたま片山と話す機会があった。「おまえ、どこに行くんだ」と聞かれた。

 この時期になって、横山はまだ何も決まっていなかった。
「実は、大学に行くときもそうだった」と横山は話す。
「1、2年浪人して大学に行こうと思っていた。サッカーで大学に行けるなどとは、考えてもみなかった」

だが高校3年の夏にGKとしてアジアユース大会の代表候補に入ると、いろいろなところから誘いが来た。その中から立教大学に行くことを決めたので、「では本格的にサッカーをやろうかな」という程度だった。

 「三菱に来いよ」と片山は言ったが、調べてみると三菱重工の就職試験は前日に終わっていた。当時の重工サッカー部監督・岡野良定が奔走し、わずか1日で三菱自動車工業に入社が決まり、重工のサッカー部でプレーすることになった。

 横山は大学最後のシーズンを前にした65年の9月に交通事故で頭蓋骨骨折という瀕死の重傷を負うが、驚異的な回復で翌66年4月のJSL開幕・日立戦に間に合わせ、2-1の勝利に貢献する。

 「少年時代は体が弱く、しょっちゅう学校を休んでいた」と語る横山だが、運動は好きでなんでもこなしたという。

 生まれは東京の神田。1943年1月21日、電線商を営む父・栄と母・えいの間に、4人兄弟の末っ子(三男)として生まれた。戦況が厳しくなって埼玉の浦和に疎開、戦後もそのまま浦和に定着することになる。実家は北浦和駅の西側にあたる常盤10丁目。当時から浦和はサッカーの盛んな町で、小学校のときからサッカーに親しんだ。「5、6年のときにはセンターフォワードで校内大会で優勝した」という。

 「中学では本格的にスポーツをやろうと思ったが、ウサギ跳びしかやらせないような練習ばかりで楽しくなかったので次々とクラブを変えた。県立の川口高校に進んでからサッカー部に定着したが、最初はDF。3年のときになんとなくGKになった」

 その新米GKが春の関東大会で大活躍して川口高校は3位に入賞。視察に来ていた岡野俊一郎(当時日本蹴球協会技術指導員)がその才能を見抜き、翌年のアジアユース代表候補に抜擢したのだ。翌年、タイのバンコクで開催された第3回アジアユースで活躍、2年後には20歳で日本代表に選出され、さらにその翌年には東京五輪に出場していた。GKになってわずか4年の出来事だった。

敬愛する二宮の一声で指導者への転身を決意

 「何年も前から決めていた。おまえにやってもらうよ」
 横山が「ボス」と仰ぐ二宮からそう言われたのは、76年の春のことだった。

 この年、長沼健監督が率いる日本代表はモントリオール五輪の予選で韓国とイスラエルに敗れ、後任候補として二宮の名が急浮上していた。二宮は三菱重工を率いて8シーズン、JSLで優勝2回、準優勝4回、天皇杯でも優勝2回という成績を残しただけでなく、チームを運営する抜群のマネージング能力を買われていた。

 「当時は33歳になったばかり。もっとできると思っていた。監督という仕事に興味はなかった。この年からコーチ兼任の立場になるはずだったが、現役の方がいいと思っていたので、本音を言えば嫌だった。しかし二宮さんとは完全に師弟関係で、ボスから言われれば仕方がない。『分かりました』と答えた時点で選手生活は完全に終わった」(横山)

 三菱重工に入ってから4つのビッグタイトルに貢献、68年のメキシコ五輪では銅メダル獲得の原動力となった。メキシコとの3位決定戦、1点リードの状況で与えたPKを横山が止めていなければ、日本はメキシコの怒濤の攻撃に耐え切れなかったかもしれない。

 その選手生活にピリオドを打っての監督就任。だが最初の2シーズンは連続して2位。チームとしては4シーズン連続2位という悔しい形となった。その間の優勝は、三菱重工にとって不倶戴天のライバルであるヤンマーから、若手が躍動する古河、そして圧倒的なブラジル人パワーのフジタへと移っていた。そして78年、三菱重工は新時代を迎える。

横山 謙三 “赤”の源流
「レッズ」の誕生。思いは引き継がれていく

 65年にJSLがスタートして以来、三菱重工は青を基調として戦ってきた。第2ユニフォームは白。73年度の天皇杯決勝は緑を着たが、「三菱といえば青」だったのが、この78年、突然赤に変わったのだ。

 「当時は予算も少なく、ユニフォームもなかなか作れなかった。前年まで使っていた青のユニフォームがぼろぼろになった。そこで、当時プーマのウェアを扱っていたヒットユニオンが新しいユニフォームを作ってくれることになった。最初にできたのが紺色で、丸首に紺と白をあしらったものだった。でもそれを着て負けたので、以後は着なくなった」と、横山は振り返る。

 「新しくするなら、第2ユニフォームの色も変えるかと話し合ったとき、気軽に『赤にしよう』と言った。三菱のスリーダイヤの赤。それが会社の色なんだからそれでいこうと……。誰も反対しなかった」。こうして赤いシャツの丸首を紺と白で飾った第2ユニフォームが誕生する。パンツは白、ソックスは赤だった。

 JSLの開幕戦は「紺」で勝利。だが以後は旧来の第2キット、白での試合が主となる。第5節に再び「紺」を着てヤンマーに2-0で勝った後、5月3日、大宮での日本鋼管戦で三菱重工は初めて赤を着る。試合は1-0の勝利。前半17分、MF加藤光男が左CKを直接たたき込んだ。だがその4日後、「紺」3試合目となった日立戦で2-3の逆転負けを喫し、首位奪回の悔しいチャンスを逃すと、「紺」は用具置き場にしまわれたままとなる。

 JSL前期をまたも2位で終えた三菱重工は中断期のJSLカップに臨む。4戦全勝でグループリーグを突破すると、準々決勝でヤンマーにそして準決勝では読売に共に2-0で勝ち、JSL前期1位、直接対決では0-4で敗れていたフジタと対戦する。

 「8月下旬の猛暑の中、岡山市での3日連続のデーゲームだった。しかしベテランを含むチームで最後には走り勝った」(横山)

 決勝戦はMF永尾昇の得点で先制したが、後半に追い付かれて延長戦に。10分ハーフの延長戦、残り3分にFW細谷一郎がドリブルシュートを決め、5シーズンぶりのタイトルを手中にした。

 ベテランぞろいで、しかも7選手が日本代表の欧州遠征から帰国した翌日に岡山に向かって準々決勝に臨むという厳しい日程だったが、鍛え抜いた走力が生きた優勝に、久々の笑顔が広がった。決勝戦で着用した「赤」は、以後、三菱重工の第1ユニフォームとなる。

 9月に始まったJSLの後期、三菱重工は9試合中7試合で「赤」を着用し、フジタを逆転して5年ぶりの優勝を飾る。そして年末からの天皇杯でも「赤」の三菱重工が決勝で東洋に1-0で競り勝ち、日本サッカー史上初めての「3冠」を達成する。

 「当時、永尾と加藤はテクニシャンとして知られていたが、ボールを持ち過ぎると批判されていた。私はこれをなんとか生かしたいと考え、『取られてもいいから、とにかくゴールに向かってドリブルをしろ』と求めた。ドリブルするからパスが生きる。2人のコンビ、アイデアが、3冠につながったと思う」

 後に浦和レッズでも2シーズンにわたって指揮を執り、現在は埼玉県サッカー協会の会長として元気に県内を飛び回る横山は、最後に現在のレッズにこんな言葉を掛けた。

 「勝負の世界だけど、プロフェッショナルだからこそ、精神はもっとアマチュアに近くないといけないと思う。1-0でリードしているときでも、時間が残っている限り相手ゴールに向かっていく。そういう姿勢を、絶対に忘れないでほしい」

  横山の心には、永尾と加藤のひたむきにゴールに向かっていくドリブルを軸に「3冠」をつかんだ「1978年のレッズ」が、いまも誇らしく、鮮明に映っている。

横山 謙三 “赤”の源流

大住良之 Yoshiyuki OSUMI

神奈川県横須賀市生まれ。
大学卒業後にベースボール・マガジン社に入社し、後に『サッカーマガジン』編集長に就任。88年からフリーとして活動。著書に『浦和レッズの幸福』(アスペクト)など。

URAWA MAGAZINE ISSUE124より転載

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