三菱重工サッカー部の
系譜SPECIAL CONTENTS

VOL.5 | 2017.11.06

清水 泰男Yasuo SHIMUZU 大観衆の前でのボレーシュート

浦和レッズの前身でもある三菱重工業、その系譜をたどる連載。
第5回は、三菱重工サッカー部で最初に背番号「9」を背負い、後に浦和レッズの代表も務めた清水泰男氏の元を訪ねた。

記事提供=URAWA MAGAZINE
インタビュー・文=大住良之
(Interview and text by Yoshiyuki OSUMI)

写真=兼子愼一郎
(Photo by Shin-ichiro KANEKO)

清水 泰男 大観衆の前でのボレーシュート

 現在の浦和レッズの「9番」といえば武藤雄樹である。2015年にベガルタ仙台から移籍、あっという間に2シャドーの一角を占めチーム最多の13得点の活躍。翌16年以来「9番」をつけ、コンスタントな得点力を発揮している。

 先発選手が1番から11番をつけることになっていたJリーグが「固定番号制」にしたのが1997年。以後、レッズで「9番」をつけた選手は武藤を入れて5人しかいない。伝説的なエースの福田正博(6シーズン= 97~02)、永井雄一郎(6シーズン=03~08、現ザスパクサツ群馬)、エジミウソン(1シーズン= 11、現レッドブル・ブラジル)、原口元気(1シーズン= 14、現ヘルタ・ベルリン)。

 浦和レッズは50年に神戸にあった「中日本重工サッカー部」として誕生し、65年から始まった日本サッカーリーグ(JSL)では「三菱重工サッカー部」として4回もの優勝を飾って92年にプロ化し現在の形となった。

 このクラブで初めて固定番号制が使われたのはJSLがスタートしたときだった。そして最初に「9番」をつけたのが、92年のプロ化時の初代代表(三菱浦和フットボールクラブ社長)である清水泰男である。

日本中を沸かせた三菱の背番号「9」

 「プレーしていた時代で最も強い印象があるのは、68年のヤンマー戦ですね」

 いつもの穏やかな表情で話していた清水の表情が一瞬輝いた。クラブ代表の座を退いてから長い時間がたつが、清水は今もレッズのホームゲームにはほぼ「皆勤賞」と言っていい。5月31日、埼玉スタジアムで行われたAFCチャンピオンズリーグラウンド16の済州ユナイテッド戦も現地で観戦した。勝っても負けても、誰に対しても穏やかな笑顔を失わないさまは、代表だった時代から少しも変わっていない。

 その清水の表情を輝かせた試合とは、68年11月17日に東京・国立競技場で行われた三菱重工対ヤンマーディーゼル。現在で言えば、「レッズ対セレッソ」の対戦だ。

 ヤンマーにはFW釜本邦茂がいた。わずか3週間半前に終了したメキシコ・オリンピックで7得点(6試合)を挙げ、得点王になるとともに日本を銅メダルに導いたヒーローである。それだけではない。当時24歳。事情があって出場はかなわなかったが、11月6日にリオデジャネイロで行われたブラジル代表対世界(FIFA)選抜にも選出された、紛れもなく「ワールドクラス」の選手だった。

 そして三菱には、メキシコ・オリンピックでその釜本にパスを送り、いくつもの得点をアシストしたFW杉山隆一がいた。オリンピックから凱旋後、初の東京での釜本出場試合、そして「釜本邦茂対杉山隆一」の対決に、なんと4万人ものファンが押し掛けたのだ。

 この年のJSLの1試合平均入場者数は、JSL全27シーズンで最多の7491人。ただし実数ではなく、主催者が発表した概数をまとめたものである。国立競技場で試合をしても、2~3000人しか入らないことも少なくない時代だった。

「釜本と杉山の対決」に固唾を飲んだ4万人のファン。しかし、その目前で「主役」の座を奪ったのが三菱の背番号9、清水だった。

 0-0で迎えた前半39分、中盤右で相手のパスをカットしたMF森孝慈がドリブルで前進、左前方に長いパスを送る。走り込んだのはMF山田(落合)弘。ジャンプしながらボレーでシュートしようとしたがジャストミートせず、ボールはワンバウンドしてペナルティーエリアの中央に。そこに走り込んできたのが清水だ。左足ボレーが炸裂する。

「GKの西片(信次郎)が一歩動いたきり、ジャンプもできないほど、見事なシュートであった」と、『サッカーマガジン』70年1月号に岡野俊一郎(当時日本代表コーチ)が書いている。

 試合は後半15分に釜本の得点でヤンマーが追いつき、そのまま1-1の引き分けで終わったが、日本中を沸かせたのは間違いない。なにしろNHK教育放送、東京12チャンネル、そしてNET(現在のテレビ朝日=録画)と、3つもの放送局がテレビ中継したのだ。

「オリンピック代表が両チーム合わせて6人も出ていて、『絶対に負けられない』という意地がありました。それまでもその後もゴールは決めたけど、やはりこれは充実した試合でしたね」(清水)

清水 泰男 大観衆の前でのボレーシュート
転機となったコーチングスクール。重病により閉ざされる道

 1938年1月1日、兵庫県神戸市生まれ。関西の名門・関西学院中等部でサッカーを始め、大学時代に頭角を現す。当時、大学チームはOBを含めた「クラブ」として天皇杯にエントリーするのが通常だったが、清水は2年生のときからOBの日本代表選手を含む「関学クラブ」の左ウイングとして天皇杯に出場、3年、4年と連続優勝を飾っている。

 小柄ながらテクニックに優れ、得点力を持った清水に実業団の強豪が誘いをかけた。実は清水はすでに実業団の強豪である八幡製鉄から誘いを受け、八幡に行くつもりだった。しかし、清水の伯父が新三菱重工(52年に中日本重工業から社名変更)の役員だったことに加え、サッカー部に関学OBが多かった新三菱からも強い誘いを受けた。

「慶應や早稲田との試合があって、東京遠征に来たんです。そうしたら先輩が『おまえだけ残れ』。新三菱は前の年(58年)に本社が東京に移転していたので、その独身寮で待っていると、3日ほどして今度は『入社試験だから行ってこい』。筆記試験の後に面接もあり、その流れの中で自然に新三菱に入っていたのです」

 60年に新三菱重工(当時)に入社した清水は、65年にJSLがスタートしたときには27歳を迎えていた。66年には杉山が加入するなど毎年有望な若手が入り、競争は激しくなる一方だったが、清水はチャンスメーカーとして、そして得点源として欠くことのできない存在だった。

 大きな転機は31歳、69年だった。この年、日本で「第1回FIFA(国際サッカー連盟)コーチングスクール」が開催され、日本からの12人の受講者の一人として清水も受講することになったのだ。このスクールはFIFAのアジア支援の一つで、主任コーチはデットマール クラマー。アジアの12カ国から42人が受講し、講義はすべて英語だった。

「心理学や解剖学、生理学などもあって、本当に大変でした。しかし、クラマーさんが教えるサッカーのコーチングは、一から勉強になることばかりでした。3カ月間、あれが人生でいちばん勉強したときでしたね(笑)」

「後に日産や日本代表の監督になる加茂周も一緒だったのですが、コーチングスクールが終わる頃には、『終わったら会社を辞めなければならないな』などと二人で話していました。僕としては、これだけお世話になったのだから、日本サッカー協会の仕事をお手伝いする義務ができたように感じたのです。加茂は後に『プロコーチ』になりましたが……」

 清水が3カ月間のコーチングスクールから戻って間もなく、三菱はJSL初優勝を成し遂げる。清水が不在の間に新人FWの細谷一郎が台頭し、清水はいよいよ「指導者への道」を考え始める。

 翌70年初め、三菱重工は日本のサッカーチームとして初めて南米遠征を決行する。1月19日に羽田を出発し、アルゼンチン、ブラジル、ベネズエラ、メキシコを回ってリバープレート、サンパウロ、フラメンゴなど強豪チームと10試合をこなし、3月4日に帰国するという大遠征だった。この遠征の最中に清水は体調を崩す。

 帰って診察を受けると、天疱瘡(てんぽうそう)という、その数年前に治療薬(ステロイド)が開発されたばかりの難病だった。ステロイド開発前には死亡率9割という恐ろしい病気だったのだ。結局、入院は1年2カ月にも及び、「日本のサッカーのために働く」という目標を諦めざるを得なかった。

「浦和はどうかな?」。巡り合わせの末に誕生したレッズ

 入院生活からの復帰後、社業に専念していた清水を再びサッカー界に呼び戻したのはJリーグだった。

 90年、プロリーグ参加を決めた三菱重工だったが、プロクラブを運営するなら一般消費者と関わる企業がいいと、サッカー部を三菱自動車に移すことを決め、清水にその部長になることを求めたのだ。

「プロ化」といっても、当時は五里霧中の状態といってよかった。中でも苦しんだのがホームタウンの決定だった。候補地が次々と消え、途方に暮れた状況になった時、あとにJリーグ初代チェアマンとなる川淵三郎(現日本サッカー協会最高顧問)から清水の元に一本の電話が来た。

「浦和はどうかな?」

 首都圏に近いサッカーの町であり、1万人収容の駒場競技場を持つ浦和市(当時)は、理想のホームタウンと見られていた。そしてJSLの強豪の一つでもあった本田技研が本拠地とすることが有力視されていた。だが90年10月に本田がJリーグ参加を見送ることを決めた。

 清水は浦和市でクラブ誘致に動いていた「浦和にプロサッカー球団をつくろう会」とすぐに会談を持ち、「浦和レッズ」が誕生する。

「三菱にとっては縁もゆかりもない浦和に受け入れられたのは、なんといっても森君(森孝慈)の努力のおかげです。彼はすぐに浦和に引っ越し、地元の人々との交流を深めてくれました。その努力がなければ、クラブのスタートに当たって、地元にあんなに協力してもらうことはできなかったでしょう」

 11年に67歳の若さで早世した“盟友”を思いながら、清水はレッズへの期待をこのように語った。

「ただ勝つとか負けるとかではなく、もう一度このチームを、この選手を見たいと思えるような試合、プレーをしてほしいと思っています。ギド(ブッフバルト)は、まさにそうした選手だったと思います」。

清水 泰男 大観衆の前でのボレーシュート

大住良之 Yoshiyuki OSUMI

神奈川県横須賀市生まれ。
大学卒業後にベースボール・マガジン社に入社し、後に『サッカーマガジン』編集長に就任。88年からフリーとして活動。著書に『浦和レッズの幸福』(アスペクト)など。

URAWA MAGAZINE ISSUE126より転載

BACK NUMBERバックナンバー