三菱重工サッカー部の
系譜SPECIAL CONTENTS

VOL.6 | 2017.11.17

片山 洋Hiroshi KATAYAMA 異端の右サイドバック

浦和レッズの前身でもある三菱重工業、その系譜をたどる連載。第6回は、メキシコ・東京の両オリンピックで活躍し、主将として三菱重工を天皇杯初制覇に導いた、片山洋氏の下を訪ねた。

記事提供=URAWA MAGAZINE
インタビュー・文=大住良之
(Interview and text by Yoshiyuki OSUMI)

写真=新井賢一
(Photo by Kenichi ARAI)

片山 洋 異端の右サイドバック

 日本サッカーリーグ(JSL=1965~92年)時代の前期に日本のサッカー界をリードした三菱重工サッカー部。その中心を担ったのは、監督として世界のトップクラスのサッカーを導入した二宮寛であり、杉山隆一、森孝慈、横山謙三といった東京・メキシコ両オリンピックのヒーロー、そしてその伝統を受け継いでハイレベルなパフォーマンスを見せ続けた落合弘などの選手たちだった。

 そうした中に異色の選手がいた。右サイドバックとして2回のオリンピックで日本の全試合にフル出場。守備の選手でありながら当時の日本で最高クラスのテクニックを持ち、相手のエースをマークさせても超一流。ハードタックルで封じ込めてチームに勝利をもたらした。しかしピッチを出ると、杉山、森らの「スター」たちの陰に隠れるように、彼はエレガントなほほえみを見せるだけだった。

JSL時代に現れた「プロ意識」を持った選手

 「僕はサッカー部をクビになった男ですから……」

 インタビューの冒頭から、片山洋はこんな過激なことを口にした。

 73年、前年までキャプテンとしてチームを引っ張ってきた片山の名が、突然、三菱重工の選手リストから消えた。この年は翌年に控えた西ドイツワールドカップのアジア第一次予選が5月16日から28日までソウルで開催されたため、JSLの開幕は7月20日となった。1940年生まれの片山は33歳で新しいシーズンを迎えるはずだった。

 「実は僕は40歳ぐらいまではやりたいと思っていたのです。できるとも思っていました。だから『引退』ではないですよ。引退というのは、皆さんに認められてやめるわけですが、僕の場合は『明日から来なくていいよ』という形だったのですから。でも、当時はサラリーマン。移籍も何もできません。だからきっぱりとサッカーをやめて仕事に切り替えました」

 選手からコーチになったわけでもなかった。サッカー部から完全に離れ、仕事に専念した。だから、それ以後の「日本サッカー史」には、片山の名前は出てこない。

 片山と言えば、右のサイドバックのイメージが強い。65年にJSLがスタートした時の背番号は「7」だった。翌年は「5」をつけた。しかし、67年以降はずっと「2」だった。伝統的に右サイドバックの選手がつけていた背番号である。

 だが、69年に三菱重工がJSL初優勝を果たした時には、MFとしてプレーすることが多かった。名ゲームメーカーとして活躍した森の背後に控え、主として守備を引き締める役割。そこから前線に飛び出したり、得意の右アウトサイドに走り出てチャンスを作ったりする思いきりのいいプレーが、リーグ4連覇を誇ってきた東洋工業(現在のサンフレッチェ広島)の牙城を崩すことにつながった。

 「僕に与えられた役割は、主として相手のチャンスメーカー、例えばヤンマー(現在のセレッソ大阪)ならネルソン吉村をマークすることでした。ディフェンスラインの近くにいて彼の攻撃を止めるだけではなく、逆に引きずり回してやろう、自分が前に出ることでネルソンに守備をやらせてしまおうと考えました。その方がチームに有利だろうと。しかし、一人でそんなことをしたらチームが混乱してしまう。そのために周囲の選手と『俺はこういう時にこう出るぞ。お前、カバーしてくれ』などと話しながらやりました」

 片山は今日的な「プロ意識」を持った選手だった。監督から指示されたことをするだけでは満足せず、自分で考え、自分自身で決めてプレーしようとした。もしかしたら、そうした姿勢が彼の選手生活に早すぎるピリオドを打たせることになったのかもしれない。

片山 洋 異端の右サイドバック
若くして頭角を現し瞬く間に日本代表へ

 1960年代、日本サッカーの「選手供給源」は非常に狭かった。浦和、藤枝(静岡県)、広島が「サッカー御三家」と言われ、トップクラスの選手の多くがこれらの地域から生まれていた。68年メキシコ・オリンピックの日本代表チームで、東京生まれは岡野俊一郎コーチと片山の2人だけ。「公用語」は広島弁だった。

 片山は1940年5月28日に東京・目黒区の自由が丘で生まれた。4人兄弟の2番目で長男。人生の大半をこの町で生きてきた。戦争が激しくなると片山家は伊豆に疎開。終戦後に戻ってきた時、片山家は幸運にも一部が焼けただけで再び住むことができたが、家の周辺は一面が焼け野原だったという。

 「家から自由が丘の駅が見えましたよ」

 その焼け野原を、小学校高学年のガキ大将にくっついて走り回る毎日だった。サッカーとの出会いは東京第一師範学校男子部附属小学校(現東京学芸大学附属世田谷小学校)入学後。第一師範は戦前の「東京青山師範学校」の後身で、戦前からサッカーを校技としていた。休み時間になると、男の子はみんなボールを蹴っていた。対外試合はほとんどなかったが、校内の対抗試合がたくさんあった。

 東京学芸大学学芸学部附属世田谷中学校に進むと当然のようにサッカー部に入ったが、体は小さかったもののスポーツ万能だった片山は柔道部員でもあり、またバスケットボール部員でもあり、相撲も強かった。その片山を「サッカーひと筋」にしたのは、ある指導者との出会いだった。教育実習で附属中学に来ていた、東京学芸大学サッカー部のキャプテンでもあった会田勝さんだ。

 「ものすごくかっこいい先生で、もちろんサッカーはうまい。その人がすごく丁寧に教えてくれて、以来、サッカー以外に目がいかなくなりました。その先生が教えてくれたのが、ルールさえ守れば思ったとおりのプレーをしていいんだよ、ということでした。『お前の自由な表現のままだよ』って。本当に素晴らしい人でした」

 慶應義塾高校を経て慶應義塾大学に進学すると、高校時代は全国大会に出場した経験もなかった片山は、最初は相手にされなかった。しかし、半年もしないうちに頭角を現し、2年に進級した時には日本代表クラスのOBを含む「慶應BRB」というチームのメンバーに選ばれて天皇杯に出場、準優勝となる中で大活躍を見せ、日本代表候補に選出される。DFとしての粘り強さと鋭いタックル、170センチとは思えないヘディングの強さ、見事なボールテクニック、スピード、攻撃センス……誰の目にも、片山が日本サッカーの次代を担う選手であることは明らかだった。60年、20歳になったばかりのことだった。

片山 洋 異端の右サイドバック
急速なプレー環境改善に拭えなかった違和感

 「中学生の頃から、サッカーでオリンピックに出るのが、大きな夢だったのです。高校2年生の時には、東京で行われていた日本代表の練習を見に行って、さらに憧れが募りました。当時は夢の夢だったので、誰にも話しませんでしたが、そのわずか3年後に日本代表になれるなんて、考えてもみませんでした」

 その年の9月、ソ連遠征のパフタコール戦で日本代表にデビュー。以後は64年の東京オリンピックに向けた強化の合宿や海外遠征の明け暮れだった。

 大学4年生になると、多くの社会人チームから誘いを受けた。しかし、どこも「仕事なんかしなくていい」という話をするのに、片山は嫌気が差した。そして、まだ全国的には強くなかった新三菱重工(64年から三菱重工)を選んだ。片山を熱心に誘ったのは、「三菱サッカーの父」と言われる岡野良定だった。

 「東京オリンピックが終わったら、仕事に専念しよう」と考えていた。しかし、東京オリンピックを経験すると、「もっとやりたい」という気持ちが強くなった。当時24歳。強豪を相手にした国際試合でもまれた片山は伸び盛りであり、世界の中でどこまで行けるか、楽しみばかりだった。

 そして東京オリンピックの翌年、JSLがスタートする。最初は練習環境の良い東洋工業や八幡製鉄に圧倒されたが、三菱重工など東京のチームも仕事を午前中で終わらせて午後は練習に充てるなど急速に環境を整え、力を付けていった。

片山 洋 異端の右サイドバック

 そうした中で、片山は違和感を拭うことができなかった。会社に出るのが週3日、それも午前中だけというのが「アマチュア」なのだろうかと考え、自分だけは月曜から金曜まで会社に出た。仕事があったわけではない。だが、少なくとも出社することが大切ではないか── 。自らの出世を棒に振って競技環境の改善に努力してきた指揮官には、そうした片山の行動は特異に見えたのかもしれない。

 サイドバックだけでなく、センターバックでもMFでも、片山は日本で最高クラスの選手だった。しかし同時に、片山は自らの考えを明確に持ち、それを表現し、行動に移すことができる、完全に自立した人間だった。そうした片山には、当時のスポーツ界は「住みやすい」ところではなかったのかもしれない。

 「やめてから思ったのは、もっと選手同士で話すべきだったかなということでした。杉山、横山、森、落合、細谷(一郎)、足利(道夫)、菊川(凱夫)、大久保(賢司)……。当時の三菱には、本当に良い選手がいました。しかし、あまりぶつかり合うということがなかった気がします。会田先生が教えてくれたように、サッカーは全て自分が決めて進めなければならないゲームなんです。だからこそ、チームが良くなるために、自分自身がチームの中で生きるために、本音をぶつけ合うことが必要だと思います」

 「いま選手がプロになってうらやましいと思うのは、強いチームなら、そうしたことをとことんやっていると感じるからです。浦和レッズもきっとそうだと思います」

 1960年代から70年代にかけての片山洋は、間違いなくトップクラスの選手だったが、同時に「異端児」でもあった。だがそれは、彼が40年ほど早く生まれてきてしまった結果だった。

大住良之 Yoshiyuki OSUMI

神奈川県横須賀市生まれ。
大学卒業後にベースボール・マガジン社に入社し、後に『サッカーマガジン』編集長に就任。88年からフリーとして活動。著書に『浦和レッズの幸福』(アスペクト)など。

URAWA MAGAZINE ISSUE127より転載

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