三菱重工サッカー部の
系譜SPECIAL CONTENTS

VOL.7 | 2017.12.01

杉山 隆一Ryuichi SUGIYAMA 20万ドルの足

浦和レッズの前身でもある三菱重工業、その系譜をたどる連載。第7回は、スター選手として戦後の日本サッカー界をけん引し、三菱重工に多くの栄光をもたらした、杉山隆一氏の下を訪ねた。

記事提供=URAWA MAGAZINE
インタビュー・文=大住良之
(Interview and text by Yoshiyuki OSUMI)

写真=兼子愼一郎
(Photo by Shin-ichiro KANEKO)

杉山 隆一 20万ドルの足

 戦後の日本サッカーで最初に「インターナショナルクラス」と認められた選手、それが杉山隆一である。

 世界のトップを意味する「ワールドクラス」とまではいかなくとも、国際舞台で抜きん出た存在として認められる── 。それがサッカーで言う「インターナショナルクラス」である。

 杉山隆一は1964年の東京オリンピックで日本の攻撃をけん引し、アルゼンチン戦で1得点1アシストを記録、「20万ドルの足」の評価を受けた。日本のプロ野球で長嶋茂雄の「契約金3000万円」が大きな話題になった時代、1ドルは公定レート360円だったから、7200万円ということになる。杉山の評価に人々がどれほどの衝撃を受けたか、現代のファンには想像が難しいだろう。

 そして66年、日本サッカーリーグ(JSL)の2年目に杉山は三菱重工に入社し、リーグきってのスターとなる。

20万ドルの足と350円のカツ丼

 「私は八幡製鉄に行く予定でした。ともかく宮本輝紀さんと一緒にサッカーをしたかったから」

 杉山は静岡県立清水東高校で2年生になったばかりの59年4月にマレーシアで行われた第1回アジアユース選手権(現在のAFC U-19選手権)に出場。日本が記録した12得点のうち5点を挙げる活躍を見せたが、その時にパスの供給役となったのが広島の山陽高校を卒業して八幡製鉄に入ったばかりのMF宮本だった。杉山は宮本のテクニックとパスのセンスにほれ込み、2年後に高校を卒業する時には「サッカーをやるなら八幡で」と心に決めていた。しかし、高校生ですでに日本代表に選ばれていた杉山は、明治大学から熱心な誘いを受け大学進学を決意。大学を卒業したら、今度こそ八幡製鉄に行こうと考えていたのだ。65年のことである。

 「ところが日本代表の先輩であり、明大の先輩でもあったGKの浜崎昌弘さんに聞くと、『会社が不景気になって、今年は、大学卒は採らない』と言われました」

 65年、前年の東京オリンピックに向けた公共事業が一段落した影響で景気は大きく落ち込んでいた。杉山はその影響をもろに受ける形になったのだ。

 その少し後に藤枝でJSLの三菱重工対名古屋相互銀行というカードがあり、両チームに大学の先輩がいたので、見に行った。6月27日のことである。両チームの先輩から「八幡に決まったのか」と問われて、杉山は正直に状況を話した。すると両チームから「じゃあ、ウチに来い」と言われた。

 「すぐに長沼(健=当時日本代表監督)さんと岡野(俊一郎=同コーチ)さんに電話を入れました。長沼さんは『もう少し早く言ってくれれば、ウチに来てもらったのに。入社試験が終わってしまったからな』と。長沼さんは古河の選手でもありましたからね。しかし、岡野さんに『どちらがいいですか』と聞くと、『会社の規模やプレーの環境を考えれば、率直に言って三菱のほうがいいと思う』。父にも相談すると、『日本代表の方がそう言うなら、いいんじゃないか』と。それで三菱に決まったのです」

 三菱重工では、監督の岡野良定が人事課長を務めていた。本社にあいさつに行くと、昼食に350円のカツ丼をごちそうしてくれた。

 「後で岡野さんが、『オレは350円で杉山を釣ったぞ』と自慢話をしていたという話を聞いて、少し腹が立ちましたけどね(笑)」

 東京オリンピックで20万ドル(7200万円)の値が付いた杉山を1ドル足らずで採った……。それは、後に浦和レッズとなる三菱重工の命運を左右する出来事となる。

杉山 隆一 20万ドルの足
極限状態で見せたひらめき 日本代表を五輪に導く

 66年にJSLにデビューした杉山は、すぐにリーグきってのスターとなる。開幕戦の後半44分に30メートルのボレーシュートで決勝点を決めてデビューを飾り、14試合で12得点(得点ランキング2位)。三菱は一躍東京を代表する人気チームとなる。

 その後、68年にはメキシコ・オリンピックでチャンスメーカーとなり、銅メダル獲得に貢献。攻撃を杉山と釜本邦茂の二人に任せ、残り8人での組織的な守備をベースに左ウイング杉山の正確無比なドリブルとクロスで得点を挙げるという戦術が徹底された。

 そして、69年にはアシスト王( 14試合で11アシスト)として三菱重工のJSL初優勝に貢献した。

 だが、杉山隆一がどんな選手であったか、何よりも雄弁に物語るのは、67年10月10日の一つのゴールだ。

 翌年のメキシコ・オリンピックを目指したアジア予選は9月27日に始まった。出場6チームが1回戦総当たりで1位チームに出場権が与えられる予選。舞台は東京・国立競技場。秋の長雨の中、2週間にわたる予選は、10月10日に最終日を迎えた。すでに日本のライバル韓国は前日に全試合を終え、4勝1分け、得失点差は+ 12。一方の日本は3勝1分け、得失点差+ 21。日本は最終日に南ベトナムに勝ちさえすればよかった。

 だが、予選突破を目前として固くなったのか、シュートがなかなか決まらず、前半は0-0。

 杉山は1週間前のレバノン戦で左肩を脱臼し、ひどく痛めていた。痛み止めを打って韓国戦に強行出場、ドリブルから1点を決めた。だが、痛み止めを打ちながら練習と試合をこなして1週間、注射の効き目も落ちていた。

 「もう麻酔は効かず、左肩はしびれも痛みも感じなかった。ただ動かなかった。走るのに腕の力がいかに必要か、初めて知りました」

 杉山は左腕を体に固定するようにして、右腕だけを振って走るしかなかった。当然、いつものスピードはなかった。

 「ハーフタイムに長沼監督が『大丈夫か? 大丈夫か?』って聞くんです。多分代えるつもりだったのだと思います。でもやるしかないじゃないですか。『大丈夫、やります!』と言って出たんです」

 その後半開始早々、杉山は中盤左でMF八重樫茂生から来たボールを頭でつついて前進、そのままドリブルで南ベトナムゴールに迫る。GKが飛び出す。「ぶつかると思った」(杉山)瞬間、無意識のうちに左足が動き、ボールをつついていた。GKと激突した杉山が吹き飛び、左肩からグラウンドに落ちた時、GKの股間を抜けたボールはころころと南ベトナムのゴールに転がり込んでいた。この1点がなければ、日本のサッカー史上に輝くオリンピック銅メダルはなかった。

サッカーの道を歩む中、胸に秘めていた家族への思い

 誕生は1941年7月4日。太平洋戦争開戦の5カ月前。父・三代次は静岡県清水市(当時)で酒店を営み、隆一は5人兄弟の3番目、ただ一人の男子だった。

 戦後、小学校に入ったが、当時の清水にはサッカーなどなく、杉山も野球少年だった。袖師町立袖師中学校(現静岡市立清水袖師中学校)に進学後、滝正直先生に勧められてサッカー部に入るとたちまち頭角を現し、サッカーの盛んな藤枝市の中学校を倒して県大会で優勝。父は後継ぎにするために中学を卒業したら家業を手伝わせるつもりだったが、清水東高校からの誘いで高校進学を認める。ここでも杉山は1年生の時に藤枝東高を退けて富山国体に出場、決勝戦で決勝ゴールを挙げて初優勝に導いた杉山の存在は一躍クローズアップされることになる。ちなみに、清水の子供たちがサッカーをするようになるのはこれ以降のことである。

 清水東高から明治大学、そして三菱重工へとサッカーの道を歩みながら、杉山の心にはいつも父に対する後ろめたさがあった。父は早くに両親を亡くし、苦労の末に自分の店を持って子供5人を育てた。本来なら自分がその仕事を継ぎ、楽にさせてやらなければならないのに、サッカーだけで生きてきてしまった。サッカーなどに関心のなかった父だったが、明治大に進む前にようやく認めてくれた。そして、以後は心から応援してくれた。

 そんな父が東京・丸の内の三菱重工サッカー部部室に監督の二宮寛を訪ねてきたのは73年夏のことだった。

 「息子も32歳になりました。もうぼちぼち家を手伝ってほしいと考えているのですが」

 そう語る病弱の老父に、二宮は「それでは今季終了まで」と答えるしかなかった。

杉山 隆一 20万ドルの足
伝説となる「杉山隆一の決勝戦」。最後の花道を自らの足で飾る

 7月にJSLが開幕。二宮は第5節から杉山を「スーパーサブ」に起用。三菱重工はMF森孝慈の最高のゲームメークと後半立ち上がりから、あるいは後半半ばから試合を加速させる杉山の存在で勝利を積み重ねた。開幕戦こそ古河に敗れたが、第2節から第15節までなんと14連勝。第16節にヤンマーと1-1で引き分けたものの2節を残して2回目の優勝を決めてしまったのだ。

 そして年末の天皇杯、3回戦から登場した三菱は初戦、法政大と1-1。PK戦で辛うじて勝利をつかんだ。大黒柱の森とGK横山謙三を負傷で欠いていたが、三菱は準々決勝では新日鉄に2-0、準決勝ではヤンマーを1-0で下して決勝戦に進出した。二宮監督が「杉山引退」を発表したのは、12月30日、神戸でのヤンマーとの準決勝の直後だった。

 東京に移動して中1日の決勝戦。相手は日立製作所だ。杉山は長年彼を悩ませてきた右膝の痛みを押して走った。そして前半32分、パスを受けて左サイドを突破、正確なクロスでMF足利道夫の先制点にアシスト。5分後には、FW細谷一郎に見事なスルーパスを出して突破させ、FW高田一美の2点目を生み出した。後半の日立の猛攻を1点に抑え、三菱は天皇杯でも2回目の優勝を飾った。

 試合後、清水東高の後輩でもある高田が杉山を肩車して場内を回る。あまりに照れくさかった杉山は、バックスタンドの真ん中で下ろしてもらったが、3万5000人のファンはいつまでも拍手をやめなかった。

 この第53回天皇杯の決勝戦は、「杉山隆一の決勝戦」と呼ばれるようになる。今年で第97回になる天皇杯だが、決勝戦が個人の名前で呼ばれるのはこの一回だけである。その一事でも、杉山がいかに特別な星の下に生まれたスターであったかが分かるに違いない。

 「快晴の国立競技場で運良く決勝まで行けて優勝して引退を飾ってもらった。本当に恵まれた人生だなって思いましたよ」

 ちなみに、この試合で三菱が着用したのは緑のユニフォーム。ナイター用に作られたものだった。8シーズンにわたってチームをけん引してきた背番号11にチーム全員がサインしてくれたものを、杉山はずっと宝物として大事にしてきた。だが、2011年の東日本大震災の時、彼は迷うことなくこの宝物をチャリティーオークションに出した。「2万いくらかの値が付いた」という。

大住良之 Yoshiyuki OSUMI

神奈川県横須賀市生まれ。
大学卒業後にベースボール・マガジン社に入社し、後に『サッカーマガジン』編集長に就任。88年からフリーとして活動。著書に『浦和レッズの幸福』(アスペクト)など。

URAWA MAGAZINE ISSUE128より転載

BACK NUMBERバックナンバー