三菱重工サッカー部の
系譜SPECIAL CONTENTS

VOL.8 | 2017.12.15

落合 弘Hiroshi OCHIAI 16シーズン、260試合の誇り

浦和レッズの前身でもある三菱重工業、その系譜をたどる連載。第8回は、三菱重工で前人未到の連続出場記録を成し遂げ、現在は浦和レッズハートフルクラブのキャプテンを務める、落合弘氏の下を訪ねた。

記事提供=URAWA MAGAZINE
インタビュー・文=大住良之
(Interview and text by Yoshiyuki OSUMI)

写真=兼子愼一郎
(Photo by Shin-ichiro KANEKO)

落合 弘 16シーズン、260試合の誇り
三菱重工の栄光時代を支えた「ミスター三菱」

 「わあ、良かった」

 1990年秋、新しいプロサッカーリーグに加入する三菱のサッカー部が浦和をホームタウンとすることが決まった時、落合弘は心からそう思った。

 浦和生まれの浦和育ち。71年間の人生で浦和を離れたのはほんの半年間ほど。

 「浦和市領家1299番地生まれ。なんていうんだろうね。まずウラワって響きが違う。もう体の中に染みついている。『浦和』っていうのが、めちゃくちゃ好きなんですよ。それに浦高(埼玉県立浦和高校)があった。頭はいいし、サッカーも強いし、憧れましたね」

 66年に三菱重工サッカー部の一員となり、39歳となる85年まで選手として登録。66年から81年までの16シーズンは日本サッカーリーグ(JSL)の全260 試合に連続出場。最多出場記録こそ同じ浦和出身の永井良和(古河電工=272試合)に譲る267試合だったが、ナショナルリーグで16シーズンも全試合出場を連続させるというのは、世界のサッカーでもそう例のあることではないはずだ。

 そして何よりも、JSL 27シーズンを通じて最も成功したクラブである三菱重工がこの時代に獲得した全てのタイトルは、落合のプレーと共にあった。

 69年のJSL初優勝、71年の天皇杯、73年のJSLおよび天皇杯2冠、78年の3冠(JSLカップを含む)、80年の天皇杯、82年のJSL4回目の優勝……。最後のタイトルは、このシーズン5試合の交代出場にとどまった落合にとって不本意なものだったが、それ以外は全て中心選手として勝ち取ったものだった。二宮寛のように時代を切り開いた監督でもなく、片山洋、杉山隆一、横山謙三、森孝慈というメキシコオリンピックで銅メダルに輝いて派手な扱いを受けた選手でもなかった。しかし、三菱が日本のサッカーをリードした時代の全てでチームを支えた落合こそ、「ミスター三菱」の名に値する選手だった。

 三菱サッカー部がいろいろな巡り合わせで落合が心から愛する浦和でプロクラブになったのは、サッカーの神様の粋な計らいだった。

落合 弘 16シーズン、260試合の誇り
「未来の日本のエース」が抱えた貧しさゆえの葛藤

 1946年2月28日生まれ。浦和市立高校(現さいたま市立浦和高校)2年生の時に岡山国民体育大会で優勝したことで一躍注目されたのが、「山田弘」という選手だった。FWとしてユース(現在のU-20)代表に選ばれた。64年に高校を卒業して実業団の強豪の一つであった東芝に入社。その2年目の65年4月、アジアユース大会が日本で開催されると、3年連続で代表に選ばれてキャプテンを任され、3得点を挙げる活躍。フィリピン戦とイスラエル戦の鮮やかな長距離シュートは、「ミドルシュートの山田」の名をファンの脳裏に焼き付けるとともに日本代表候補に選ばれるきっかけとなった。

 翌年、山田は東芝を退職して三菱自動車販売に籍を移し、三菱重工サッカー部の一員となる。JSL開幕戦の前半11分に先制点を挙げるという華々しいデビューを見せ、この直後には日本代表にもデビュー。「未来の日本のエース」と言われた。

 1年目は背番号19。2年目から8番をつけ、「インサイドFW」として華々しい活躍で三菱の成長の核となった。2年目には13ゴールで得点ランキング3位。4年目には12ゴールを挙げて得点王になるとともに、三菱のJSL初優勝に大きく貢献した。この年の春に結婚、「落合弘」としての得点王だった。

 だが当時の日本で会社を変わって移籍するというのは非常にまれな出来事だった。

 「全ては、貧しかったからなんです」

 そう落合は語る。

 父・山田正一は戦前、宮内省に籍を置き、皇族の教育に当たっていた。家は東京の日本橋にあったという。しかし、戦時中に疎開してそのまま暮らしていた浦和で、1946年3月、病気で急逝する。残された母・博子は、戦後の混乱の中、生まれてまだ6日目の弘と3人の子供たちを女手一つで育て上げなければならなかった。

 「9歳を頭に4人もの子供を抱える女性を雇うところなどありません。おふくろは納豆や豆腐を売り歩いたりしていました」

 姉2人は中学を出るとすぐに就職し、兄も定時制の高校に通いながら働いて母を助けた。末っ子の弘も、中学卒業時には高校を出たら就職するつもりだった。だから技術を学ぶために埼玉県立川口工業高校を志望したが、先生に勧められた浦和市立高校に進むことにした。

 家のすぐそばに埼玉県立浦和高校があった。全国選手権で3回もの優勝を誇る名門で、弘は小学校から帰るとその校庭に行き、球拾いをしながら練習を見ていた。その中には、後に浦和レッズの代表となる犬飼基昭もいた。

 そんな中で自然にボールを蹴るようになり、中学時代にはDFとして活躍。浦和市立高校に進むと、2年生でレギュラーに定着、その秋の国体優勝に貢献して2年生としてはただ一人ユース代表に選ばれた。翌年も選ばれ、全国的にも知られる選手になっていた。

 しかし、弘はサッカーを続けることなど念頭になかった。ただただ、母を助けるために就職したかった。いくつかの大学からは「学費免除」の申し出もあったが、高校時代でさえ、授業料こそ安かったが、家にお金を入れることができず、後ろめたさがあった。

 ほろ苦い思い出がある。9歳上の姉・慶子(長女)が中学を出て与野の会社に就職し、最初の給料日のことだった。

 「何か買ってあげるから、夕方に北浦和駅までおいで」

 姉の言葉に、弘の胸は朝からときめいた。早めに駅に行き、姉を待った。姉は弘の手を引いて果物屋に行くと、バナナを買ってくれた。当時バナナは高価なぜいたく品。山田家には無縁のもので、ひと房はとても無理だった。1本のバナナを買って帰宅すると、兄弟4人で分けて食べた。初めてバナナを食べた弘は、そのねちゃねちゃとした食感に「なんだ、こりゃ」と思ったという。

落合 弘 16シーズン、260試合の誇り
全力を尽くして勝ち取った260試合連続出場の誇り

 とにかく就職しようと、川崎市の東芝に入社した。8時始業の工場。弘の仕事は経理だったが、朝5時に家を出て通った。とにかく母のそばにいたかった。しかし就職した翌年、JSLが始まる。メディアがこぞって応援し、華やかに盛り上がった。一緒にプレーした選手もいた。東芝のサッカー部はJSLに参加することができず、グラウンドでボールを蹴るのはせいぜい週に2回ほどだった。

 この頃、弘は日本代表候補に選ばれていたこともあり、自主練習の時間を増やすために川崎の寮に入っていた。「浦和に帰りたい」という気持ちと、「JSLで力を試してみたい」という思いが重なり、移籍を決意。紆余曲折があったが、JSL2シーズン目の66年から三菱でプレーすることになった。

 そしてデビューから16シーズン続いた全試合出場。全てが先発で、ほぼ全てがフル出場だった。68年12月の東洋工業戦で足首を捻挫し、後半30分過ぎに交代したが、翌週にはフル出場している。

 「先のことなど考えない。その試合、その試合で全ての力を出し切ればいいという思いでやってきました」

 260試合連続出場を、落合はそう話す。

 「そのための準備は真剣でした。酒は飲まない。睡眠時間をしっかり取る。自分のリズムで生活する。『付き合いが悪い』と言われていましたが、良いプレーをするのが自分にとって一番大事だと思っていたので、全く気にしませんでした」

 デビュー当初はインサイドFWとして前に飛び出すセンスの良さを生かして得点を量産した。しかし、20代後半を迎える頃にはDFとなった。ストッパー、リベロ、サイドバック、今で言うボランチと、どこでもやった。

 「得点も面白かったけれど、守備の駆け引きが面白くなって……」

 74年には久々に日本代表に選ばれる。そして、今度は中心選手として定着し、75年から80年までの日本代表の大半の試合に出場、キャプテンも務めた。

 「忙しくなったのは事実ですが、私は受け入れるのがうまいからね」

 監督からどんなポジションを言われても、周囲が驚く順応力を見せてピッチで超一流のプレーを見せ続けたのが落合だった。だが、その落合が珍しく我を通したことがあった。

 81年まで16シーズン、260試合連続出場を続けてきた。しかし、82年の開幕戦、落合はベンチに置かれた。代わりに横山謙三監督が送り出したのは、20歳の川添孝一だった。川添は積極果敢なプレーを見せ、先制点を挙げて2-0の勝利に貢献した。

 残り5分になった時、コーチの大仁邦彌がベンチの落合のところに来て「支度しろ」と言った。落合は横山が連続出場記録を配慮してくれたんだなと思った。

 だが、勝利が確実な試合の残り5分に出場するのは全く本意ではなかった。それまでの260試合は、一所懸命に頑張って、チームに必要とされ、自分で勝ち取ってきたものだった。こんな形で出たら、その260試合が台無しになってしまいそうな気がした。

 ただ、一選手が監督に反抗する形は作りたくなかった。そこでロッカー室に戻り、ゆっくりと着替えることにした。着替えている時に試合終了の笛が鳴った。横山は何も言わなかった。

「学校で学べないことを育む」。選手時代と変わらない活力

 「受け入れるのは得意」だが、「受け入れられない」と思ったら、石でも動かない。そんな性格は母の影響かもしれないと言う。

 「小さい時からおふくろの後ろ姿を見てきました。おふくろも、言われた仕事には夜中でも飛び出していきましたが、嫌と思うことは絶対にしませんでしたから」

 落合は2003年に浦和レッズの「ハートフルクラブ」の「キャプテン」となり、71歳の今も元気に活動している。

 「『普及をやろう』ということだったのですが、浦和にはいまさらサッカーの『普及』など必要ない。サッカーを通じて学校では学べないことを育んでいきたいと、子供たちと話し、一緒にボールを蹴る活動を続けています。ほぼ毎日、県内の小学校に出向いています。『レッズの人が来る』と楽しみにしている子供たちの前に白髪の私が出ていくと、みんな驚きますが、何でも正直に話すと、みんな目を輝かせて聞いてくれます。私は小学生時代に過酷な生活をしてきたから、『子供の時に苦労した人は絶対に勝つ』などという話をするんです」

 ハートフルクラブは県内だけでなく岩手や福島の被災地にも行く。外国での開催もある。

 「地道なことでも百年続けたら、地域にとって大きな財産になる。だから頑張ろう」

 若いスタッフたちに、落合はいつもそう声を掛ける。そう、16シーズン、260試合の1試合1試合を、誇りを持って、全身全霊で戦い続けてきたように──。

大住良之 Yoshiyuki OSUMI

神奈川県横須賀市生まれ。
大学卒業後にベースボール・マガジン社に入社し、後に『サッカーマガジン』編集長に就任。88年からフリーとして活動。著書に『浦和レッズの幸福』(アスペクト)など。

URAWA MAGAZINE ISSUE129より転載

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