三菱重工サッカー部の
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VOL.9 | 2017.12.28

大仁邦彌Kuniya DAINI プロ化への足音の中で見せた最後の奮闘

浦和レッズの前身でもある三菱重工業、その系譜をたどる連載。第9回は、三菱重工で選手・監督として活躍し、現在は日本サッカー協会名誉会長を務める、大仁邦彌氏の下を訪ねた。

記事提供=URAWA MAGAZINE
インタビュー・文=大住良之
(Interview and text by Yoshiyuki OSUMI)

写真=兼子愼一郎
(Photo by Shin-ichiro KANEKO)

大仁邦彌 プロ化への足音の中で見せた最後の奮闘

 1988年夏、神田小川町の小さなビルに入った日本サッカーリーグ(JSL)1部三菱重工サッカー部の部室で、監督である大仁邦彌は深刻な顔をして考え込んでいた。

 この年、JSLは勝ち点制度を変え、「勝利に2、引き分けに1」からイングランドにならって「勝利に3、引き分けに1」という制度を採用することにした。攻撃的な試合を増やして魅力を高めたいという狙いだった。

 日本代表の攻撃陣をずらりと並べた日産を筆頭に、当時のJSLでは読売、ヤマハ、全日空など、プロ選手で固めたチームが優勝を争っていた。そうした中で全員が「社員選手」である三菱は過去2シーズン(86-87、87-88)を連続して3位で終える奮闘を見せたのだが、いよいよ苦しくなると予想された。

 他のチームが日本代表選手でなければ南米のトップクラスのプロ選手を連れてきて攻撃力の強化を図る中、三菱はなんとか組織的な守備で失点を抑え、勝機をつかもうというチームだった。必然的に引き分けが多くなる。新しい勝ち点制度では、引き分けは負けに等しいと言っても過言ではなかった。

 だが、移籍による補強という手段も一般的ではなく、日本人選手だけで戦う方針だったチームに一挙に得点力を挙げる秘策などあるわけがない。この88-89シーズン、三菱はJSL1部で最下位。2部降格が決まった。

大仁邦彌 プロ化への足音の中で見せた最後の奮闘
三菱・日本代表で躍動した“守備のスペシャリスト”

 大仁は70年に慶應義塾大学を卒業して三菱重工に入社。前年JSL初優勝を飾ったチームで1年目からレギュラーとなり、DFとして欠くことのできない存在になった。

 神戸で生まれ、神戸市立本山中学で2年生になってからサッカー部に入部した大仁だったが、たちまち頭角を現し、中心選手となった。キック力を生かして中盤で活躍した。

 名門・兵庫県立神戸高校では最初FWとして使われ、やがてMFに、そして1年生の最後にはDFでプレーするようになっていた。

 「『おまえ、全部相手の前で取れ』って、3年生のキャプテンに言われました。当時は完全マンツーマンのサッカー。DFは後ろからがつんと当たるという形でした。しかし、ユース代表の選考合宿で浦和のDFがとにかく相手の前でカットするのを見たキャプテンが、私にもそうしろと言ったのです」

 “守備のスペシャリスト”大仁邦彌が誕生したのは、その時だった。

 「どうやってインターセプトするか。全体の流れを見なければならないし、相手がどういうタイプの選手で、どんな時に前に出るのか、それとも引くのかも考えなければならない。あまりヤマを張ると裏を取られるから。それを考えていかに相手の前でボールを取るかを、以来ずっと考えてやってきました」

 三菱でのデビュー戦は、70年4月5日のヤンマー戦。前年優勝の三菱のイレブンの中にただ一人の新人、背番号12をつけた左サイドバック大仁の名前があった。

 「記録を見ると観客は2万7000人。しかし、国立競技場がいっぱいになった感じがあって、『日本リーグはやっぱりすごいな』と感じました」

 以来76年まで、大仁は出場停止1試合を除くJSLの全試合にフル出場。72年からは日本代表としても活躍、インターナショナルAマッチ44試合。キャプテンを務めた時期もあった。

 「やはり、釜本(邦茂)さんがいてくれたからでしょうね」

 JSLのデビュー戦では直接当たったわけではなかったが、その後、大仁がポジションをDFの中央に移すと、必然的にヤンマー戦では釜本を止める役になる。

 「クロスが入ってくる時、まともに競り合いにいったら、釜本さんにドーンとやられてしまう。だからその前でヘディングできるようにする。それも無理と思ったら、なんとか体を抑えに行く。せめて強いヘディングはされないように。いろいろなことを考えながらやりました。そうした中でディフェンスの力が伸びていったと思います」

 “守備のスペシャリスト”にも、華々しい得点の思い出はある。76年の第12節、11月2日に水戸で行われたトヨタ戦だ。

 首位に立っていた三菱だが、前半、最下位トヨタのカウンターで3失点を喫し、後半22分までになんとか追い付いたものの、その後のトヨタの守備は固く、引き分けかと思われた。だが、現在の言い方で言えば後半アディショナルタイムの4分、まさに最後のプレーで大仁が決勝点を決めたのだ。

 「ペナルティーエリアの少し外まで前進したら、ボールがこぼれてきた。ワンバウンドではずんだところを、左足のアウトサイドでGKの上を抜こうと蹴りました。イメージどおり、ボールはGKの頭上を越えて左に曲がりながら落ち、ゴールに吸い込まれました」

 得意でない左足での決勝ゴール。これがJSLで唯一の得点だった。

大仁邦彌 プロ化への足音の中で見せた最後の奮闘
突きつけられた“プロ”との差。監督としての苦悩と奮闘

 78年、33歳でコーチになり、84年、39歳の時に監督に就任。82年に大混戦のJSLで最終節に逆転で4回目の優勝を飾った三菱だったが、翌年は6位に沈み、苦しい時期にさしかかっていた。

 65年に始まったJSL。スタート当初は広島の東洋工業が4連覇を飾ったが、69年に三菱重工が初優勝を飾ると、70年代は、三菱とヤンマーを軸に日立、古河などのチームが優勝争いを展開した。だが、77年に2人の強烈なブラジル人アタッカーを並べたフジタが割って入り、80年代になると、読売、ヤマハ、さらには日産と、新興勢力がタイトルをさらっていく。

 前者は完全な企業チーム。後者はプロ指向のチームで、選手は契約でサッカーだけに集中することができた。そうした環境の違いが最も顕著に出たのが、「補強」だった。高校や大学のエースたちは、とにかくサッカーだけで生きていくことを望んだからだ。

 80年代後半のバブル景気を前にしたこの頃、日本の経済は右方上がりの成長を続けていた。若者たちに将来への不安はなく、夢を追うことが普通になった。83年に大学時代に日本代表に選ばれていたDF越田剛史、DF田中真二、FW柱谷幸一、そしてユース代表の経歴を持つFW水沼貴史、DF杉山誠がそろって日産に加入したのは、そうした時代背景に押されてのものだった。

 必然的に「企業チーム」はサッカーを志す高校生や大学生の目には魅力のないものに映った。大仁の引退後、81年にすでに日本代表だったFW原博実、83年にFW吉田靖が共に早稲田大から加わったが、三菱の陣容は次第に苦しいものとなっていた。それが、大仁が監督に就任してからの2シーズン続けての7位という成績に表れていた。

 しかし、大仁は諦めなかった。

 「GKに日本代表だった田口光久がいた。DFには斉藤和夫がいた。チーム一丸となって守り、奪ったらとにかくFWの原に当てて、こぼれ球を決めようというサッカーでした」

 「原は完全に大黒柱でした。チーム練習が終わってからも、ヘディングの練習を何十分もやっていました。彼のそういう取り組みは、みんなにも大きな影響を与えたと思います」

 大仁が就任して3シーズン目の86-87シーズン(このシーズンから正式に越年制となった)は、正式にプロの登録が認められた年だったが、三菱はプロ選手が多数のチームを抑え、22戦して9勝10分け3敗、最少の14失点で3位。続く87-88シーズンには12勝5分け5敗で、連続3位の好成績を残した。同シーズンには原は10得点を挙げ、得点ランキング2位となった。

 しかし、その原が88-89シーズンでは肉離れで力を発揮できず、三菱は1勝11分け10敗、最下位の12位となり2部降格が決まった。シーズン唯一の勝利は、降格がほぼ決定的になっていた89年4月22日の本田戦。前半に相手のミスを突いて3得点し、なんとか3-2で逃げ切った試合だった。

成し遂げた大仕事と、いまだ残る一つの悔い

 その苦しみに満ちた88-89シーズンが始まった88年秋、大仁は、しかし「大きな勝利」を得た。久々の「大型新人」の獲得である。

 中央大の試合を2試合直接見て、大仁は「これはちょっとものが違う」と感じた。スピード、ドリブル、シュート。どれをとっても可能性の大きさを感じた。それが福田正博だった。聞くと、父親は三菱重工の社員だという。「何が何でも」と思った。

 「会って話したら、すごく真面目な人間だった。まったくすれていない、純粋な感じがしました」

 福田の元にはいくつかのチームから誘いが来ていたが、大仁が最も熱心だったという。救いは、福田が「夢追い人」ではなく、自分の人生を真面目に考える性格だったことだった。彼はプロができるといってもその将来に不安を抱き、企業チームへの就職を考えていた。最終的に古河と三菱が候補になった。そして大仁の熱意に動かされ、三菱重工サッカー部だけでなく浦和レッズの最初の10年間を一身に担う「赤いユニフォームの福田正博」が誕生した。

 三菱の監督を退任後、数年後には日本サッカー協会の仕事をするようになり、強化委員長、副会長、会長と歴任して現在は名誉会長の職にある大仁。協会の仕事をするようになってつくづく思ったのは、ワールドカップの連続出場をはじめとした日本サッカーの飛躍は、全てJリーグができたおかげだったということだった。

 一つの悔いがある。

 「80年代に苦しくなった頃、三菱のサッカーをどうしていくのか、方向性をもっと会社と話し合うべきだった。その頃の私は『会社が考えるべきこと』と思っていたのですが、今思えばわれわれ自身が動いて、プロ的なチームにしていくべきだったと思います。Jリーグが始まった当初、浦和レッズが出遅れたのは、その辺りから始まったのではないかと、責任を感じています」

 そして今のレッズにこうエールを送る。

 「何といってもホームタウンに恵まれていますよね。あのようなスタジアムがあり、あのようなサポーターがいて、みんなで応援してもらって、すごく恵まれていると思います。だから頑張ってほしいですね」

大住良之 Yoshiyuki OSUMI

神奈川県横須賀市生まれ。
大学卒業後にベースボール・マガジン社に入社し、後に『サッカーマガジン』編集長に就任。88年からフリーとして活動。著書に『浦和レッズの幸福』(アスペクト)など。

URAWA MAGAZINE ISSUE130より転載

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